Vol20. 2013年12月 伊藤 潤さん 芸術工学部8期生


中日新聞社 編集局デザイン課

伊藤 潤

8期生 視覚情報デザイン学科 平成18年度卒業(森下研)
大学院芸術工学研究科博士前期課程 平成20年度修了(森下研)

―伊藤さんはどういう仕事をされているのですか。

中日新聞社のデザイン課で紙面のCGを作っています。
例えば、見出しに添えるイメージカットや地図、図解など、新聞記事の文章と写真以外のグラフィックスの部分がデザイン課の仕事です。

この2011年3月12日付の新聞、つまり東日本大震災の当日に作ったものですが、この時は、地震や揺れをイメージしたものを、とにかく早く!と指示があって、かなり急いで作りました。新聞は印刷や配達の時間が決まっているから、時間が本当にシビアで、もちろん間違いがあってもいけない。きれいで見やすいものを作ろうとはするけれど、まずは間違いの無いものを作って紙面を埋めることが大前提にありますね。

震災のときは東京勤務で、首都直下型で起きる地震の想定図とか原発のCGなども作りました。震災後の一年間はめちゃくちゃ忙しくて、本当に大変でした。でも、そのときに改めて、報道の力というか役割というものを実感しました。

―東京新聞(中日新聞東京本社)の原発関連の報道は評価高かったですよね。報道の力を実感したとは具体的にはどういうことですか。

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震災関連の記事で作成した東京湾北部地震の震度想定図


何が起きているか分からないと人って不安になるじゃないですか。
地震や原発事故のときは、みんなが実際はどうなのかと切実に情報を求めていた。そして、情報を伝えるのは新聞社の仕事で、その中で自分はCGを作っている、という強い実感がありましたね。

例えば、東北の交通網の状況を伝える地図は、被災地にボランティアに行く人も必要としていた情報で、そういう人のために早く作らないといけないぞ、という気分で。CGが占めるものって大きいですし。

あのときは、読者の方と面と向かっているわけではないけれど、読み手と作り手の意思疎通ができていたというか、絶対に必要だから作るし、読み手も「これが知りたかったんだ」と反応してくれているような感覚がありました。必要としてくれているぞ、と。

―震災関連の記事は私もいつもより真剣に読んでいました。仕事をしていて、芸工でよかったと思うことはありますか。

制作にあたってフォント数や色に制限があるといった話もうかがいました


新聞社は分業化されているので、僕は記者が書いた記事や話をもとにグラフィックスを作るのが仕事ですが、何も内容が解ってなかったら描けないので、記者やデスクの人に積極的に質問したり、ディスカッションした上で作るようにしています。

いいものを作るためにはみんなで協力しないといけない、そういう発想は芸工だと自然なことじゃないですか。卓プロジェクトとかで、役割分担しながらみんなで一つのものをつくった経験があるから。それは芸工の強みだと思いますよ。だから学生のうちに、話すだけでもいいから他の専攻のみんなで何かやってみるといいと思います。

―確かに芸工は研究室のワークショップとか、みんなでやるプロジェクトが多い気がします。卓プロジェクトは先輩たちのころからあったんですね。

卓プロジェクトは僕たちの代で始まったんですけど、大きな意義として、専攻も学年も関係なくごちゃまぜにしたグループで作品をつくろう、というのがありました。みんなでつくるのって結構、難しい。でも自分が思いもしない意見や技が出てくるし、月並みな言葉ですが、一人ではつくれないものができますよね。

僕の場合、人に見せて何か意見を言われたら、それを受け入れてまず直してみるようにしています。そうして直したものってより良くなることが多くて。学生のときの作品でもそう。人に見せることで社会性を持つし、他人が疑問に思うところって他の人たちもひっかかるところなので、素直に受け入れてみる方がいいと思います。でも自分がそうできるようになったのは、大学院からでしょうか。

―大学院での変化に何かきっかけはあったんですか。

僕は森下良三先生についていたんですけど、大学院のとき、先生に言われたこと全部やったんです。何回もつくってはつくり直しました。直感的に良いものが出来上がることもあるかもしれないけれど、それも育ててあげればもっと良くなる、それに気づかせてくれたのが森下さんです。

森下さんてやさしいんだけど、絵とか制作に対してはすごく厳しくて。サボってたらほんとに怒る人で、「おまえは才能がないんだから毎日描いて、とにかくやらない限りはだめだ。途中でやめるくらいだったら今すぐやめろ。続けるなら続けろ」と言われました。そのうちに自分の中で才能とかセンスとかどうでもよくなっちゃいました。

今も会社の仕事とは別に絵を描いていますが、森下先生じゃなかったら、僕はたぶん絵を続けてなかったかもしれないですね。描き続けるって決めてるからやらないわけにはいかない。すごくシンプルな話ですけど。

―「才能のあるなしが関係なくなった」って、すごいですね。悩んでる場合じゃないなって気になります。先輩にとって森下先生の存在って大きいんですね。

大学院ではアメリカの美術史についての勉強もしました。1950年代からだいたい今までの美術に絞って調べたんですが、どの時代も常に前の時代に影響されている動きが出てきて、それが連続し影響しあっている。

みんな切磋琢磨してやっていて、それが脈々と続いているということを知り、自分もその先にあることをやろうと思いました。今まであったやり方や表現を使ってもいいけれど、それを知り、実験した上で制作することで作品も良くなっていきました。

―1年生のときに美術デザイン史の授業を受けましたが、自分の作品をその流れの先にあるものという視点はありませんでした。伊藤さんの大学院のときの作品はどんなものだったんですか。

大学院修了制作の作品


最終的には映像を使った作品になったんですが、制作するにあたって二本の筋をつくりました。

ひとつ目の筋として表現の部分では、さっき話したアメリカの美術からヒントをもらっています。もう一本の筋は、新聞からテーマとなる問題を拾ってきて公共広告という設定にしたこと。というのも、広告などのグラフィックは美術作品と相互に影響してきたという背景があるから。ウォーホルの作品にも見られますが、美術も大衆の広告に影響されてるし、逆に大衆の広告も美術の手法を取り入れている。両方がともに作用しあって美術と広告はあるということを年表で示して、公共広告として作品をつくったんです。

そうやって二本筋を定めたら、自分の立ち位置がはっきりしました。すると、調べるものが明確になり制作もスムーズに進んだし、迷いがなくなったから自信を持ってプレゼンもできました。

―なるほど。すごく理論的ですね。ほかに学生にときにやっておいてよかったことってありますか。

積極的に大学の外に出て行ったことでしょうか。遊ぶのが好きなんで、今でもいろんなとこに出かけます。音楽や食とか、どんなに小さいイベントでも行ってみると、その現場には絶対おもしろい人がいる。名古屋のちっちゃな店とか、ほんとにいたるところでおもしろいことが起きてて、そういうところに出かけるのが好きなんです。今は仕事終わってから行ったりで、体力いるんですが、行くと刺激を受けるし考えさせられますね。動いているうちに出かけることに対して体力もついてくるから、学生に図々しく何か言うとしたら、学校だけじゃなくて外に出てほしいってことですね。

あと、とにかく制作を頑張ってほしい。絵が好きなら描く。とにかく描く、それしかないと思います。やれば絶対良くなる。やってやり直して、それ繰り返して、良くならないことなんて絶対ない。できれば毎日学校行って制作してほしいですね。あと自分の作品を人に見せること。何かダメなことを言われてもちゃんと自分で考えて、冷静に自分の作品と向き合うと良くなっていくと思います。

―仕事のほかに作品もつくり、イベントにも出かけてらっしゃって、アクティブですね。これからこうしたいっていうビジョンはありますか。

絵を描き続けること、それだけです。

身近なビジョンだとイベントをできたらいいなって思います。これまで出かけるばっかりで自分で起こそうとはあまりしてなかったから。

それ以外は特にないですね。絵を描くことだけは常々、人に言ってます。人に言うとその人を裏切らないためにやらなきゃいけないじゃないですか。だから絶対やるって、絶対描きつづけるって言ってます。

インタビュワー

西尾陽子 16期生(平成23年度入学)デザイン情報学科
―インタビューの感想―
様々な人がいて、協力しあう芸工生だったからこそ上手くいく仕事もあったと聞いて自信がつきました。仕事と趣味を両立していらして、すごいと思います。私も、いつまでも絵を描き続けられるようがんばりたいです。

野間華 16期生(平成23年度入学)デザイン情報学科
―インタビューの感想―
東日本大震災時に情報を発信する側として活躍されていたという話は刺激的でした。
まわりの人の言葉や指摘を素直に受け入れられることが、伊藤さんの仕事や絵を描くことにしっかりと結びついていて、自分も見習いたいと思いました。


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